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メキシコ軍の帆船、横浜に来航 漂着400年を記念
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20090527AT1G2702K27052009.html
NIKKEI NET 2009/5/27
江戸時代にメキシコに向かう帆船が千葉県御宿町の海岸に漂着、乗組員が地元民に救助されてから400年を迎えたことを記念し、メキシコ軍の帆船が27日、横浜港に入港した。日本とメキシコで今年、交流400年記念のイベントが企画されており「400年前の友情を現在の日墨関係の発展につなげたい」(ルイスカバニャス駐日メキシコ大使)という。
言い伝えによると、1609年9月に難破した船の乗組員約三百数十人を地元漁村の海女らが肌で温めて介抱。その後、徳川家康に謁見(えっけん)するなどの歓待を受けた後に帰国したという。
今回寄港した帆船「クアウテモック号」は停泊中に内部を一般公開し、6月6日に東京・晴海、同月12日に千葉県御宿町を訪問する。同町では地元民が乗組員に和太鼓や日本舞踊を披露するなどの交流行事が予定されている。
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大多喜町
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A4%9A%E5%96%9C%E7%94%BA
1978年8月3日姉妹都市として提携。1609年(慶長14年)ドン・ロドリゴ総督 の一行がフィリピンからメキシコへの帰途に、大暴風の為、房総の御宿海岸に座礁難破した。地元の漁民達に助けられ、時の大多喜城主本多忠朝(本多忠勝の次男)がこれら一行を歓待し、幕府が帆船を用意してメキシコへ送還した事から日本とメキシコとの交流が始まった。現在も、大多喜城まつりにおけるメキシコ関係者の招待や各種行事への相互の参加が多くなってきている。
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ロドリゴ・デ・ビベロ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%B4
フィリピン臨時総督在任中、マニラで起こった日本人暴動に際し暴徒を日本に送還し貿易量の制限と暴徒の処罰を要求、徳川家康の外交顧問だったウィリアム・アダムスが訪れた際会見し家康に友好的な書簡を送り、ヌエバ・エスパーニャと日本との交流が始まる。
1609年次期総督と交代のため召還命令を受け、戦艦3隻の艦隊でマニラからアカプルコへ向けての航海中台風に遭い、ロドリゴの乗った旗艦「サン・フランシスコ号」は難破、9月30日に 上総国岩和田村(現御宿町)田尻の浜に漂着、地元民に救助される。なお僚艦の「サンタ・アナ号」も、9月12日豊後の臼杵中津浦に緊急入港し[2]、もう一隻の「サン・アントニオ号」のみヌエバ・エスパーニャへの航海を続けた。
地元民に救助されたロドリゴ一行は、時の大多喜藩主本多忠朝の歓待を受け、大多喜城から江戸城に立ち寄り、駿府城で家康と会見するなど日本滞在の後、家康からウィリアム・アダムスの建造したガレオン船(日本名:安針丸)の提供を受け、「サン・ブエナ・ベントゥーラ号」と命名、1610年8月1日に日本を出発し、同年11月13日アカプルコに帰還した。この日本滞在中の見聞録は『ドン・ロドリゴ日本見聞録』として今に残されている。
サン・ブエナ・ベントゥーラ号には、ヌエバ・エスパーニャとの交流拡大を目指す家康の使節アロンソ・ムニョス神父や京の商人田中勝介らも同乗した。その翌年の1611年、田中勝介らとともにヌエバ・エスパーニャからセバスティアン・ビスカイノが答礼使として来日し、1613年にルイス・ソテロや支倉常長ら慶長遣欧使節団とともにサン・フアン・バウティスタ号で帰国した。
後に、日本が開国し諸外国と国交を開いた際不平等条約が当然だったなか、1888年(明治21年)に締結した日墨修好通商条約が平等条約だったのは、メキシコと日本はこのころから交流のある互いに対等な国家だったからであり、欧米列強との不平等条約を改正できた背景にこの友好的な日墨関係があるとも言われている。
現在、ロドリゴ一行が本多忠朝の居城大多喜城に立ち寄る際に通ったコースを走るロドリゴ駅伝が、漂着した御宿町、いすみ市(旧大原町、夷隅町、岬町)、大多喜町で開催されている。
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