teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]


例の…

 投稿者:木村  投稿日:2008年 7月22日(火)15時17分41秒
返信・引用
  Bank of the United Stateについてですが…

◎Bank of the United State
ハミルトンは産業化するために国立銀行が必要であると主張し、1816年にスタートされた。しかし、ジャクソンの時代になくなり、現在も国立銀行はない。

とのことです!遅くなってすみません。
 
 

すみません!!!!

 投稿者:カネザワ  投稿日:2008年 7月22日(火)05時29分13秒
返信・引用
  ほんっともう、こんな遅くなってしまってすみません!!!
申し訳ない限りです。。。。
不平不満どしどし受付ております。。


1.北アメリカ最初のイギリス人による植民地について、北と南の違いを含めて説明しなさい。
北アメリカ最初の植民地は、1607年、ヴァージニアのジェームズタウンに開かれた。その目的は経済的動機によるものだったが、これに対しマサチューセッツ湾岸植民地を中心とする北部植民地はピューリタンの信仰理解に基づく社会形成を目指した。北アメリカの植民地では、先住アメリカ人、ヨーロッパ系白人、黒人の三つの人種集団が生活することになった。そして、アメリカ植民地には、ピューリタンの信仰に基づく北部、黒人奴隷を基盤にした南部と性格の異なる地域が形成され、それらはイギリスの干渉をほとんど受けることなく独自の経済的・政治的発展を続けた。また、北部では自給的小規模農業が普及したのに対して、南部では奴隷制・大農園制に基づくタバコの単一作物栽培がさかんに行われた。

2、Salemの魔女狩りについて、その社会的背景について説明しなさい。

1692年、ニューイングランド地方のマサチューセッツ州セイラム村(現在のダンバース)で魔女狩りは起こった。200名近い村人が魔女として告発され、19名が処刑され、1名が拷問中に圧死、5名が獄死した。無実の人々が次々と告発され、裁判にかけられたその経緯は、集団心理の暴走の例として著名である。この事件が起こった時期は宗教改革とほぼ重なり、カトリックとプロテスタントの対立が激化していた。人々は戦争、革命、疫病、餓えなどの不安の中に暮らしていた時代だった。ピューリタン社会独特の抑圧が集団的なヒステリーを起こし、この事件と結びついた可能性がある。

3、アメリカへの移民の歴史について述べなさい。移民の数の変化、出身地の変化、アメリカ社会の移民に対する態度、政府の政策、移民に対する政策などについて説明すること。

17世紀には、約16万5000人がヨーロッパからイギリス領北米植民地に移住した。そのほとんどがイギリス出身者であった。18世紀には、スコットランドとアイルランドからの移民が数多く渡米した。1730年以後はドイツ系移民が急増した。1815年のナポレオン戦争以後、世界的な人口移動が生じアメリカには約3300万人が移民してきた。主にアイルランドとドイツから来た彼らは旧移民と呼ばれ、文化的にも政治的にも成熟しており、アメリカ人にふさわしい移民と見なされた。これに対し1880年から1920年の間に移民してきた約2300万人を新移民と呼ぶ。北・西欧系の旧移民から明確に区別され新移民と呼ばれた東・南欧系移民やアイルランド人は文化的・政治的に未熟であり、アメリカの伝統や価値観に適応することが難しいと決め付けられた。1924年には移民法が制定され、アジアからの移民を全面禁止し、東・南欧からの移民を事実上禁止した。1930年代、大恐慌と第二次大戦によって途絶えた移民は、戦後すぐに再開した。1965年には移民法も廃止された。

・Jamestown
1607年、英国の北アメリカ大陸における最初の植民地。
・ Puritans
16世紀後半以後、イギリス国教会を批判し、徹底した宗教改革を主張したプロテスタント諸教派の総称。
・Congregationalism(組合教会制主義)
キリスト教プロテスタントの一派。
・Church of England
1534年、ローマ教会(カトリック)から独立したイギリスの国教会。プロテスタントに属するが、カトリック的儀礼・教義を残している。
・Indentured Servants
年季奉公人。イギリスの下層民をアメリカ植民地に輸送し、約4年~7年間労役に服させる労働契約の下で植民地に渡った移民のこと。
・Pilgrims
1620年にメイフラワー号に乗ってアメリカに移住してきた「ピューリタン」と呼ばれるプロテスタント教徒の一群。
・Plymouth
1920年にメイフラワー号が到着した地でピルグリム・ファーサーズによって建設された。マサチューセッツ州南東部の港町。
・The Chesapeake(チェサピーク湾?)
メリーランド、ヴァージニア両州に囲まれた太平洋岸中部にある。アメリカ東部の大西洋岸最大の入り江。
・John Winthrop
1630年マサチューセッツ湾植民地の最初の知事に選ばれた人物。ピューリタンを新世界に導いた政治家。
・Massachusetts Bay Colony
1629年、ピューリタンの入植によって建設された植民地。後の独立13州のひとつ。
・Pocahontas
ヴァージニア地方のインディアンの女性で、アルゴンキン・インディアン系族連合の酋長の娘。
・Roger Williams
ロードアイランド植民地の共同設立者。
・Anne Hutchinson
マサチューセッツを出て、ロードアイランド州植民の拠点となったアクぃドネック島(後のロードアイランド島) に植民地を作った女性。
 

(無題)

 投稿者:設楽  投稿日:2008年 7月21日(月)19時31分6秒
返信・引用
  該当箇所が見つからず(先生が授業で講義していたのかもしれませんが)いろいろ調べてみましたがこんな感じです↓



2、黒人の歴史についての歴史家の解釈は、時代を経てどのように変わってきたか。
かつて黒人奴隷制は、黒人の人種的な劣等性という観点から正当視されていた。現在では、黒人奴隷制はアメリカの植民地時代における経済発展を支える労働力になり、独立戦争ではその戦力となったという歴史から、アメリカの歴史に黒人はなくてはならない存在であったと考えられる。
 

アメリカ概論課題

 投稿者:青木メール  投稿日:2008年 7月21日(月)12時22分39秒
返信・引用
  遅れまして、大変すいませんでした。初めてのため、小川君に教えてもらいました。


         アメリカ史概論 みんなの宿題 青木の課題

1-4.19世紀の移民にとって、アメリカの夢は真実だった。(機会均等法、social mobilityを含めて論議する)

この時代、アメリカの社会構造は階級制度であり、ただイギリスのような固定した階級制度ではなく流動的な階級制度だった。つまり階級間の移動(social mobility)が活発な社会制度だった。実際に、移民が貧困階層から、上流階級になることは、ほとんど無かったが、ただ、その社会構造の中で、移民の中には、その社会的地位を上昇させ、安定した生活を送る者もいた。移民がアメリカに来る動機は、その貧しい生活から抜け出すことであったから、その意味では、移民にとってアメリカの夢は、真実だったと云える。

1-5多分化社会アメリカの在り方について、・・・・・

  19世紀になるとアジア人に対する移民規制と、アメリカ同化政策がとられ
  た。20世紀にはメルティングポットの考えが入ってきた、アメリカは、第一にアメリカは移民の影響によって常に変化していく認識があった。第二に、アングロサクソン的な文化や制度はアメリカの特質であり根幹であった。ふたつの考えが結合してメルティングポットの概念が生まれたといえる。多様な人種や民族は、アングロサクソン的名文化や制度に同化し、その結果、人種のるつぼとして、アメリカ社会が作られるとかんがえられた。よって、20世紀にはいって、限定的にではあるが、食事様式、家事、生活様式に至るまでの、同化政策がとられた。しかしながら、移民は民族的なコミュニティーにこだわり、自らの文化を捨てることは難しく、裏を返せば、多くの移民にとって言語を除いた同化は、受け入れることは困難だった。50年代以降公民権運動やベトナム反戦運動の高まりにより、民族を意識するようになり、同化に代わる、多文化主義の考えが生まれた。各々人種や民族が、自らの文化や民族のアイディンティーを持ちながら、サラダボール的な融合を目指すことでアメリカ人としての一つになる。そういった意味での、市民宗教は、アメリカのとっての重要な絆であろう。





2-1 奴隷制の始まりについて

1619年、20人の黒人がバージニア植民地のジェームスタウンに、オランダ船によって連れてこられた。彼らは奴隷ではなく、白人年季奉公人と同じ立場だったが。北部では、家事や、小規模な農園の労働者として、これに対して南部では、大規模なプランテーションの大量の労働力確保と奴隷が求められた。そして、バージニア州では1661年黒人を終身度奴隷として、白人の年季奉公人とは異なった身分とする法律を制定し、黒人奴隷制を法制化した。サウスカロライナや他の各州もそれに続いて、法制化した。ここに黒人奴隷制が、確立された。18世紀半ばのバージニア植民地人口29マンの内12万人、サウスカロライナの場合は13万うち9万人が奴隷人口だった。チェサピーク湾はバージニアやサウスカロライナの貿易にとって、良港を提供する格好の場所だった。
*チェサピークとの関連はよくわかりませんでした。


・知っておくべき事柄

Massachusetts Bay colony
禁欲的な生活を送るピューリタンのコロニー

Pocahontas
インディアン族長の娘で、タバコ栽培を伝授、ジョン・ロルテと結婚したことで、ジェームスタウンの危機を救う

Roger Williams
政教分離を唱えた。1635年、植民地から追われ、プロヴァンス植民地を開いた。

Anne Hutchinson
マサチューセッツ植民地において、自ら信ずるところの神の教えを説いて、多くの人々の信望を集めたが、ピューリタン教会と対立し、裁判にかけられ、植民地から追放された。

Maryland colony
1634年ボルチモア卿の私領地として創立された、最初の領主植民地

William Penn
クエーカー教徒で、領地の知事となり、「信仰の自由の国」をめざして、ペンシルヴェニアを建設した。


Quakers
ジョージ・フォックスが創始者、宗教的平等主義に基づく友愛と寛容を説き、勤勉な生活を強調した宗派。

Bacon’s Rebellion
奥地プランターのナサリエル・バコンと農民たちが、海岸地方のプランターに反感を抱き、バージニアで反抗運動を起こした

Mercantilism
航海条例によって本国が必要とする産物は列挙品目に指定され、本国にしか輸出できなかった。そして、イギリス船を使うことが義務づけられていたが、しかし、タバコや藍は保護されていたので、南部プランターは繁栄し、奴隷制が深まった。

Salem Village
1692年に魔女裁判が行われた地

Scotch-Irish
北アイルランドに渡ったスコットランド人でアメリカに移民として渡り、主に奥地の開拓をした人たち、プロテスタント長老教会主義、副音主義、節制と厳格な生活習慣をもつ。

Enlightenment
自由と進歩と理性を評価する思想で、プロテスタンティズムとのかかわりを通してアメリカの思想的伝統を作りだしたと考えられている。
 

アメリカ概論課題

 投稿者:青木  投稿日:2008年 7月21日(月)12時12分22秒
返信・引用
  遅くなってすいませんなかなか、ここに入れなくて苦労しました。  

お疲れ様です

 投稿者:設楽  投稿日:2008年 7月21日(月)02時11分38秒
返信・引用
  2についてまだしらべ途中なんですがとりあえず投稿します!



2、黒人の歴史についての歴史家の解釈は、時代を経てどのように変わってきたか。
 まだ調べ途中です><

3、奴隷解放宣言によって奴隷は全面的に解放されたか。そうでなかったとすれば、どういうことだったのか。また奴隷解放宣言は何によって成し遂げられたのか。

奴隷解放宣言は反乱州の奴隷を解放させることを明記した。つまり、北部にある奴隷州は奴隷解放宣言の対象外だったのである。1965年の南部の降伏ののち、憲法修正13条(奴隷制廃止)の批准によって、奴隷制は廃止された。

8、北部の人々の奴隷制に対する態度はどのようなものであったか。リンカーンの立場は?
アボリショニズム…William Lloyd Garrison率いる奴隷制の即時廃止を求めた人々。奴隷たちが北部やカナダへ逃亡する手助けをしていた。
フリーソイル…リンカーン率いる奴隷制の拡大に反対した人々。アボリショニストにも反対
リンカーンは何よりも南北の統一を目指し活動を行った。


new immigrants
1880年代以降、工業化と労働力不足が契機となって移住した南欧・東欧出身の移民。低賃金の彼らに都市のスラムを脱出する希望はほとんどなかった。

old immigrants
1880年代以前のアイルランド、ドイツ、イギリス、スカンジナビアなどからの移民。家族単位で移住し、東部では熟練職人として、中西部では土地所有農民として定住するものが多かった。

Immigration act of 1924(移民法)
1924年に出された。国別に移民許可数を決め、南欧・東欧からの移民を制限し、アジアからの移民は完全に閉め出すという差別的な法律。

Multiculturalism
社会は異なる文化を持つグループが対等な立場で構成するべきだという考え方または政策。アメリカでは1980年代から90年代にかけて激しい論争が展開された。

PC(political correctness)
言葉の表現や用語に人種・民族・宗教・性差別などの偏見が含まれていないことを指す。特に多民族国家アメリカにおいて差別・偏見を取り除くという政治な観点から見て正しいという意味で使われるようになった用語。

Northwest Ordinance(北西部条例)
アメリカ合衆国が北西部への州の創立を認め、それらの州における奴隷制を禁止した条例。この条例は「国が奴隷制の可否を決める」ことを示したことに意義がある。

French and Indian war
1755~63年に北アメリカで行われた英仏植民地戦争。アメリカはこの戦争で大きな出費をしたため、北米への課税を重くした。これが独立戦争の遠い原因となった。

Virtual representation
税金を払っているにもかかわらず、代表者を選ぶことができないこと。

Stamp act
1765年イギリス議会によって決められた、アメリカ植民地における一切の法律文書、公文書、商取引上の書類に印紙をはらなければ無効であるとする法律。この法律が独立革命の重要な原因となった。

Boston Massacre
1770年にマサチューセッツ植民地のボストンでイギリス軍が民間人5人を射殺した事件。独立戦争を引き起こした原因の一つ。

Samuel Adams
アメリカ合衆国建国の父のひとり。イギリスに対する反抗に植民地人の支持を集める時の主唱者であり、アメリカ独立につなげた。

Committees of correspondence
独立戦争の時期に、植民地間の連絡を密にするために作られた委員会で、各州の政府によって運営された。
 

お疲れ様です。

 投稿者:木村  投稿日:2008年 7月21日(月)01時06分3秒
返信・引用
  つたない日本語ですみません。

Ⅲ.アメリカ政治の伝統
1.1763年はなぜ転換点?
1763年イギリスはオランダとフランスと七年戦争(アメリカではフレンチ・インディアン戦争)をしていた。その戦争によって出費がかさんだイギリスは、植民地に様々な税金をかけ、戦費を負担させようとした。また、植民地はイギリスとしか貿易をしてはいけなくなった。この戦争までは、イギリスは他の事で忙しく、植民地にあまり干渉していなかった。この状態を"salutary neglect"と呼ぶ。

2.1765年~1776年に起こった事。その意義。
◎1765年 印紙法制定
→植民地における一切の法律文書、公文書、商取引上の書類に印紙を貼らないと無効であるという法律。大学の卒業証書や、新聞、雑誌などにも。この法に反対して、イギリス商品ボイコット、暴動などが起こった。独立革命への重要な原因となった。
◎1773年 ボストン茶会事件
→イギリスの制定した茶法に反対して、東インド会社の茶船を襲った事件。アメリカ独立運動の一契機。
◎1775年 レキシントン・コンコードの戦い
→独立側の民兵がイギリス軍とここで衝突。独立戦争勃発!
◎1776年 トマス・ペインが『コモンセンス』出版
→君主制を否定し、アメリカ独立への気運を高めた。

3.独立宣言について(内容、歴史的意義)
1776年7月4日にトマス・ジェファソンを中心に起草された。独立宣言は万人が造物主によって平等に作られており、「生命、自由、そして幸福の追求」を内容とする、譲り渡すことの出来ない自然権を平等に与えられていることを謳いあげている。政府がこれらの人権を侵害することがあれば、人々は革命を起こすことが出来る。独立宣言は本国に対する植民地人の「自由」と「権利」の根拠を、普遍的な「自然権」の原則に求めている。この点にアメリカの独立が世界史上の画期としての理由がある。

Ⅳ知っておくべき事柄
◎War of 1812
イギリスとの戦争。第二次独立戦争と呼ばれる。マディソン大統領のとき。この戦争の結果、アメリカの産業が発展(国内の紡績が発展)し、国民としての誇りを守った。また、イギリスとの関係が良くなった。

◎Articles of Confederation
連合規約。1777年にアメリカ諸州間の連合の永続化をはかるために大陸会議が制定。中央統治機関として、様々な議決権は与えられていたが、執行機関や課税権を持たなかったので、中央政府としての役割は果たせなかった。

◎James Madison
第四代大統領。「憲法の父」と呼ばれる。

◎separation of powers
連邦の中央政府機能を立法、行政、司法の三権に分けること。

◎checks and balances
州政府と中央政府の権力を分けて、お互いに抑制均衡を図るシステム。

◎The Federalist
憲法支持派のマディソン、ハミルトン、ジェイによって書かれた。今日でもアメリカ憲法、政治学の分野における古典的傑作として認められている。

◎Bill of Rights
権利章典。人民の基本的人権を具体的に列挙したもの。1789年マディソンによって起草される。10ヶ条からなり、憲法制定後に追加された。1791年に批准される。

◎Alexander Hamilton
ジョージ・ワシントンからの厚い信頼を得て、彼の下で財務長官を務めた。

◎Bank of the United States

◎Republicans
共和派。1800年の大統領選挙でトマス・ジェファソンが当選し、政権獲得。親フランス派。現民主党の前身。

◎Federalists
連邦派。初代大統領ワシントンや、第二代アダムスの属した政党。親イギリス派。The Alien and Sediion Acts(1789)の制定によって人気が無くなり、その後消滅。現共和党の前身。

◎Washigton's Farewell Address
1796年の大統領辞任演説で、アメリカはヨーロッパの紛争に巻き込まれないために、どの国とも長期的な同盟関係を結ぶべきではないと訴えた。

◎Alien and Sedition Acts
移民の市民権獲得の条件を厳しくするなどした法律。


Bank of the United Statesについてですが調べても分かりませんでした。誰か分かる人がいたら教えてください。すみません。
 

難しい・・・

 投稿者:小川  投稿日:2008年 7月20日(日)15時38分28秒
返信・引用
  みなさんお疲れ様です!!!!!!!
不十分なものもあります。
ごめんなさい><

Ⅲ.アメリカ政治の伝統

4.合衆国憲法について。なぜ制定されたのか。憲法の特徴。連邦制度とは。

独立以降、13の州単位での自治が行われていたが、次第に中央政府の強化の必要性が明らかになる。この脆弱な中央政府を強化するために、1787年に憲法制定会議が開かれる。
独立戦争がイギリスの秩序からの離脱を意味し、それは人民の自由の確保の必要性を意味していた。この「人民主権論」を合衆国憲法は2つの権力分立システムで保障している。第1に、政府権限は連邦政府と州政府との間で分割され、第2に、連邦政府も立法、行政、司法の三権に分立されている。
この「人民主権論」のもとで、州政府のいくつかの権限を連邦政府に委譲する、という制度が連邦制である。ここからも、人民の権限が強く、連邦政府の権限が限定されていたものであったことがわかる。


5.共和国思想とは何か。(内容、意味、その他)その中で女性はどう位置づけられたか。

1776年の「独立宣言」に記載された”all men are created equal. ”を基にして生まれた思想。
植民地時代のイギリスからの統治から独立し、人民主権論のもとで民主主義国家を作ろうという考えで、このときの”all men”とは「白人の男性」を意味し、共和国を支える「市民」は白人の男性という認識があった。
女性は母親として、息子を「市民」に育てる役割があると認識された。この理念を「共和国の母」という。当時、女性の教育を正当化し、社会的地位の上昇のきっかけとなったが、今日まで続くジェンダーの矛盾の原点にもなった。


6.Alexander Hamiltonの財政政策とはどういったものだったか。

George Washington政権下での初代財務長官として、財政基盤を確立させた。独立戦争時の負債を額面どおり返済した。国立銀行を設立し、蒸留酒消費税などの新税制を整えた。
現在でいう共和党側に属し、富裕層に有利な財政政策をとることが多かった。



■Eli Whitney
コットンジンの発明者。1765~1825。ほかに、銃や時計の部品を統一し、分業による大量生産方式を考案した。

■Mulattoes
ムラート。黒人と白人の混血を示す言葉。1850年や1870年のCensus(国勢調査)で「白人/黒人」の混血を示すカテゴリーとして設けられている。

■Nat Turner
奴隷反乱の指導者。1831年にヴァージニア州で反乱を率いて60人の白人を殺した。このナット・ターナーの反乱は、南北戦争前に起こった最も注目された黒人の反抗。

■temperance movement
禁酒運動で、19世紀に展開された社会改革運動のひとつ。

■abolitionists
奴隷の即時廃止を訴える人。Free soilersと対比される。

■William Lloyd Garrison
アボリショニストの一人(1805~1879)。1831年ボストンで新聞The Liberatorを発刊し、奴隷廃止運動の急先鋒に立つ。

■Angelina and Sarah Grimke
1830年代に女性解放・奴隷廃止を主張した姉妹。

■Free soil
西部領土への奴隷制の拡大を防ごうという考え。

■Kansas-Nebraska Act
1854年成立。ルイジアナ購入地域の中のミズーリ川とロッキー山脈に挟まれた地方にカンザス準州とネブラスカ準州の2準州を置き、それらを移住民に開放した法律。

■William D.B. Dubois
黒人指導者(1868~1963)。白人と同様に黒人にも政治的権力、公民権、高等教育が必要だと主張する。

■Booker T. Washington
黒人指導者(1856~1915)。黒人の地位向上には経済力をつけることが必要で、白人社会との協調を説く。

■Marcus Garvey
黒人指導者(1887~1940)。アフリカ人としての誇りを訴え、白人との融合は退け、「アフリカへ帰れ」という運動をする。


頑張りましょう!
 

誤字等あったらごめんなさい。。

 投稿者:小松崎  投稿日:2008年 7月20日(日)13時27分16秒
返信・引用
  うまくまとめられず文章が長くなってしまいました。ごめんなさい。
あと、カッコ内の文章はテストの際には蛇足と思われる部分なので、無視してください。


Ⅱ.

5.
 (19世紀初頭、南部住民を含む多くのアメリカ人が、奴隷制を道徳的に正しくないものと考え、奴隷制廃止の気運が高まっていた。しかし、一方でこの時期、南部ではコットンブームが到来し、奴隷の労働力が必要不可欠なものとなった。これ以降、奴隷制の廃止や拡大阻止を訴える北部と、奴隷制存続を訴える南部の対立は、深まっていくことになる。)

 1830年代以降、北部で奴隷制廃止運動が盛んになり、議会での論争も活発になったが、奴隷制をめぐる南北の対立は、1850年の妥協を経て、危機的状況を回避できたかに思われた。しかし、その後制定された1854年のカンザス・ネブラスカ法は1820年のミズーリ協定を反故にするものだったため、北部の奴隷制廃止論者の怒りを買い、南北の対立を激化させるきっかけになった。また、この年に北部廃止論者らの手により共和党が設立された。1857年のドレッド・スコット判決や1859年のハーパーズ・フェリーの襲撃は、南北の対立をさらに加速させた。1860年、共和党のジョージ・ワシントンが大統領に選ばれると、翌年の1861年に南部11州は連邦から脱退。彼らは南部連合を結成し北軍を攻撃した。このような過程を経て、南北戦争は始まった。


6.
 "Reconstruction" とは、1865~1877年の間、北部共和党急進派の主導で南部が合衆国に再統合された時期のことを指す。

 (開放された黒人に土地や支給金を政府が与えなかったため、黒人が中々自立することができなかった点や、Ku Kluw Klan の出現、"reconstruction" 後に "redeeemers" と呼ばれる南部保守派が台頭してしまったことなどから、"Reconstruction" は必ずしも成功したとは言えないが、)憲法修正第14条や15条等によって、黒人が市民権や法による保護、投票権を獲得したこと、加えてこの時期に公立学校のシステムが確立されたことの歴史的意義は大きい。


7.
 Booker T. Washington, W.E.B. DuBois, Marcus Garvey の三人はいずれも黒人の地位向上を訴えた人物であるが、彼ら三人の考え方はそれぞれ異なっている。Washington は技術を磨き、勤勉に働くことで経済力をつけることこそが黒人の地位向上にとって最も重要なことであるとし、白人社会との協調を説いた。これに対し、DuBois は黒人にとって必要なことは政治的権力や公民権、高等教育であるとし、黒人は白人と同等の立場になるべきであると訴えた。上記の二人が黒人の白人社会への融合を目標としていたのに対し、Garvey は「アフリカへ帰れ」などの運動を展開し、黒人の白人社会からの離脱を図った。また、彼はアフリカ文化を賛美し、黒人の間に民族的アイデンティティーを確立させた。


Ⅳ.

Boston Tea Party
1773年に起こった、英国政府の茶税に抗議するボストン市民が英国船に忍び込み茶箱を海に投げ捨てた事件。


Lecington and Concord
1775年の4月19日に起こった、アメリカ独立戦争の始まる契機となった英米間の戦闘である"Battles of Lexington and Concord" が行われた場所。


First Continental Congress
1774年から Philadelphia で開催された13植民地代表者会議。この会議は主に「耐え難き諸法」(Intolerable Acts)に対して開かれた。この会議で作成された連帯決議には「耐え難き諸法」が撤回されなければ、英国製品をボイコットし、また輸出も止めるという植民地間の盟約が盛り込まれた。


Republican Mother
市民(白人男性)が支える共和国において、女性の果たす性的役割は、男性が有徳の市民となるよう養成することであるという考え方。この考え方では、女性は直接的に政治に参加できず、家庭内において息子に教育を行うという間接的な形でしか政治に参加できない。


Republicanism
Federalistsの「政治は少数のエリートや裕福な人間が行うべきで、なおかつ政府の権限は最低限のものであるべきだ」という考え方に対し、「政治には民衆の意見を取り込むべきで、より政府は大きくあるべきだ」という考え方。


Thomas paine 's Common Sense
1776年1月より Thomas paine によって発行されたパンフレット。パンフレットのタイトル通り、人々の「常識」に訴える平易な英文で合衆国独立の必要性を説き、合衆国独立への世論を強めさせた。


Declaration of independence
アメリカの独立にさいし、Thomas Jefferson が起草した戦前。1776年7月大陸会議で可決。John Locke の自然法思想に立脚して自由・平等・幸福の追求を天賦の人権として主張した。


Franco-American Alliance
"Treaty of Alliance" とも呼ばれる。1778年にフランスとアメリカの13植民地の代表者との間で結ばれた友好条約。フランスは13植民地が自立した状態にあることを認識し、双方とも勝手に休戦しないこと、および植民地はアメリカにおけるフランスの権益を守ることで合意がなされた。


Treaty of Paris
ヨーロッパの七年戦争と北米大陸のフレンチ・インディアン戦争などの講和条約。1763年にイギリス、フランス、スペインの間で締結された条約。この条約によりイギリスとフランスのインド・北米植民地戦争は一旦決着し、イギリスがインドと北米植民地の覇権を確立した。


George Washington
アメリカ合衆国初代大統領(1789~1797)。1775年以来独立戦争を擁護し、83年独立を成就。アメリカ建国の父と呼ばれる。孤立主義外交を強調した訣別の辞を公表して引退。(1732~1799)


John Adams
アメリカ合衆国の政治家。独立革命に活躍。第2代大統領(1797~1801)。フェデラリスト党員。(1795~1826)


Benjamin Franklin
アメリカの政治家・科学者。印刷事業を営み、公共事業に尽くした。独立宣言起草案委員の一人で、合衆国憲法制定会議にも参与した。(1765~1790)


Thomas Jefferson
アメリカ合衆国第3代大統領(1801~1809)。1776年、独立戦前を起草。地方分権的な連邦制や、大衆参加の民主主義を主張した。


Andrew Jackson
アメリカ合衆国第7代大統領(1829~1837)。初の西部出身の大統領。小農民・労働者の権利の擁護、全権の打破などに努め、いわゆるジャクソニアン・デモクラシーを確立。他方、インディアン強制移住の先例を作る。
 

よろしくおねがいします~

 投稿者:小泉  投稿日:2008年 7月19日(土)11時19分48秒
返信・引用
  Ⅲ.アメリカ政治の伝統


7.

最初の政党はFederalists(連邦党)である。
Federalistsは親イギリスであり、商工業育成を第一義とし、
一部のエリートが権力を握る体制を目指した。
その国内/外交政策の反動として親フランスの
Anti-Federalist(のちのRepublicans)が生成することになった。

当時の人々は政党と、「利害関心」から生じる派閥を同一視していた。
FederalistsとAnti-Federalistsの争いは、
商工業を基盤とする支配者層と、
南部プランターの対立であったと
言い換えることができる。





8.

1776年、独立宣言を書いたとき、Thomas Jeffersonはわずか33歳だった。
彼はワシントン大統領の閣僚として働き、
1801年にアメリカの第三代大統領となった。(リパブリカン党)

彼は南部人ながら奴隷制に反対だったが、
黒人と白人が共生できるとは考えておらず
国外に排除することを主張した。
同時に、奴隷を所有し、毎朝「財産」を数えることを日課にするなど
矛盾した点もあった。

1803年、Jeffersonはフランスの植民地を購入した。一晩にしてアメリカの
領土は倍以上になった。
また、Jeffersonは、ルイスとクラークを新しい土地の探検のために派遣した。

Jeffersonはしばしばルネサンス的人間と呼ばれる。
法律家・政治家としの活動にとどまらず、
教育者・建築家としても功績を残した。
晩年はバージニア大学を創設し、余生を捧げた。

Jeffersonは1826年7月4日、アメリカ独立の50回目の記念日にその生涯を閉じた。





9.

1812年戦争は「タカ派」の対英強硬論と、イギリス海軍による
アメリカ船員の強制徴用によって巻き起こされた国民の憤激を
背景に、マディソン大統領がイギリスに対する宣戦布告を決定し始まった。

この戦争は、別名「マディソン氏の戦争」と呼ばれる。
この戦争によって、アメリカのナショナリズムはいちじるしい高揚をみた。

こうしたナショナリズムの高揚は、
経済的ナショナリズムの発展と表裏一体をなしていた。

1812年戦争の歴史的意義とは、政治的独立を達成した
アメリカ革命につぐ、経済的独立をもたらし、長く対英劣等感に取り付かれていた
アメリカ国民に国民的誇りと自立の希望をもたらしたことであると言える。




Ⅳ.知っておくべき事柄


Black Nationalism
(白人から分離して黒人の自治による社会の米国内建設を唱える
戦闘的な「黒人民族主義」)


NAACP
(National Association for the Advancement of Colored People
「全米黒人地位向上協会」

参考URL:
http://www.naacp.org/about/

最も古い公民権運動組織の一つ(1909年設立)
公民権運動の指導的な組織となった。)


Martin Luther King Jr.
(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
1929-1968。米国。黒人・人権活動家。
ガンディーのように「非暴力」をモットーにした。

1963年の20万人のワシントン大行進を実施。1964年にノーベル平和賞を受賞。
人種平等のために努力したが暗殺(1968年)された。
誕生日に近い1月第3月曜は米の祭日。)


Plesssy v. Ferguson
(「分離すれど平等」の主義のもと、公共施設(特に鉄道)での黒人分離は
人種差別に当たらないとし、
これを合憲としたアメリカ合衆国の裁判。
法学上、画期的なアメリカ合衆国最高裁判所の判決となった。
最高裁判決は1896年5月18日に下された。)


Brown v. Board of Education
(1954年5月17日、19世紀後半以降続けられてきた
公民権獲得のための地道な戦いが実った。

最高裁が「ブラウン対トピーカ教育委員会」
において、カンザス州の公立学校における
人種隔離に違憲判決を下した。

公的施設における
人種隔離は「プレッシー対ファガーソン」判決以来
アメリカの人種関係の法的原則として認められていた。

ブラウン判決は、黒人たちの長年の戦いの成果であり、
特にこの裁判ではNAACPを後ろ盾とした黒人の弁護士が
活躍していた。)



Constitution Amendment 13
(公式に奴隷制を廃止し、奴隷制の禁止を継続すること、
および制限のある例外(犯罪を犯した者)付きで、
自発的ではない隷属を禁じた。)


Constitution Amendment 14
(元奴隷の市民権の保護)



Constitution Amendment 15
(選挙権に関する人種による制限の禁止)



affirmative action
(1965年、ジョンソン大統領は、連邦政府と契約を結ぶ
企業や機関は「人種的マイノリティを雇用し昇進させるための
積極的な行動」(アファーマティブアクション)をとらなければ
ならないとする強制命令を下した。

二年後には女性もこのマイノリティに
加えられた。対象は次第に、大学などにも広がっていった。)



Reconstruction
(「再建」戦争で破壊された南部の経済、社会の再建を意味する。
1865年の敗戦による南部連合の解体によって始まり,1877年に終了した。)



Malcolm X
(アメリカ合衆国の黒人解放運動指導者。
ブラック・ムスリム に所属し,エライジャ・ムハンマドの片腕といわれたが,
脱会して別に宗教団体〈ムスリム・モスク〉と,
政治組織〈アフリカ系アメリカ人統一機構〉を設立した。

メッカに巡礼し,新しい展望によるブラック・ナショナリズムを
目指したときに暗殺された。

その後の若い黒人層に与えた影響はきわめて大きく,
映画が製作されるほど,今なお高い人気を保っている。)




Black Power
(1960年代後半のアメリカに起った急進的な黒人解放運動。
また、そのスローガン。黒人だけの社会の形成を志向。)



Black Panther Party
(ブラックパンサー党、黒豹党
1965年マルコム X 暗殺後に結成されたアメリカの黒人解放組織。)
 

レンタル掲示板
/2